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1467年から1469年にかけてのロシア・カザン戦争は、モスクワ大公国とカザン・ハン国との間で行われた一連の戦争について解説する。ルーシの年代記はこの期間中の戦争を「Первая Казань 」と呼んでいる〔''Ю. Г. Алексеев'' Под знамёнами Москвы. — М. Мысль, 1992 г. C. 93〕。 == 戦争の開始 == カザン・ハン国の建国はモスクワとカザン間との商業上の争いをもたらしたが、その後、長い期間に渡って両者の間では平和的な関係が維持された。1461年にウラジーミルにてタタール人に対する軍が召集されたが、カザン・タタール人は使者を送って平和が乱されることはなかった。1462年のモスクワ大公ヴァシーリー2世盲目公没後から程なくしてカマ川上域にて衝突が生じた。けれども商業上の争いは1467年には余り表面化しなかった〔''Ю. Г. Алексеев'' Под знамёнами Москвы. — М. Мысль, 1992 г. C. 75—77〕。 マフムード・ハン没後、その妻は慣習に従ってハンの兄弟かつカシモフ・ハン国の皇子であったカシムと結婚した。ハリルはカザンのハンとなったものの、程なくして没し、マフムードの別の息子であるイブラヒムがハンとなった。カシムがハンの母親と結婚していることは明白であり、幾つかのカザンの慣習に従うならば既存のハンよりもハン位につく権利は大きくはなかった〔''Алишев С. X.'' Казань и Москва: межгосударственные отношения в XV—XVI вв. — Казань: Татарское кн. изд-во. C. 32〕。モスクワ派はハン位につくようにカシムのもとに赴いた。新大公イヴァン3世大帝は好機を利用してイヴァン・ヴァシリエヴィチ・ストリガ・オボレンスキー並びにホルムスク公ドミトリー・ドミトリヴィチを指揮官とする大軍を援軍としてカシムのもとに差し向けた〔''Волков В. А.'' Войны и войска Московского государства (конец XV — первая половина XVII вв.). — М.: Эксмо, 2004.〕。 1467年9月14日にロシア軍はカザンに入城した。イヴァン3世は予備軍とともにウラジーミルにいた。けれどもカザンにおけるカシム派は余りにも弱体であり、自身の請求者に対して支持を表明することが出来なかった。カザン民衆はイブラヒム・ハンのもとに結集し、スヴィヤガ川河にてモスクワ軍はタタール軍と邂逅し、そこではロシア軍をヴォルガ川左岸に渡河させなかった。ロシア軍はタタール軍を船から誘い出そうとしたが失敗に終わった。悪天候並びに不十分な装備の状況下においてロシア軍は本国からの船団を待たずしてカザンから退却することを余儀なくされた。ロシアの最初の大規模なカザンへの遠征は完全に失敗に終わった。カシムは程なくして死んだが、このことは将来の出来事に影響を及ぼさずにはいられなかった。ロシアは、敵の襲撃を撃退するための砦並びに軍隊の準備に取りかかった。 ロシアによる遠征の返答としてカザン軍はガーリチを襲撃して郊外を荒らしたが、同都市を落とすことは出来なかった。ヤロスラフスク公ロマン・セミョノヴィチを軍司令官とするモスクワの軍勢がガーリチ救援に赴いてタタール軍を壊滅させた。この部隊は12月6日にスキー部隊でガーリチから出撃した。森を通り抜けて«チェレミス人の地»を突然襲撃してタタール軍を惨たらしく殺し、1日の間で彼等は一兵たりともカザンに辿り着くことは出来ず、ロシア軍は多くの戦利品を携えて帰還した。冬の終わりにタタール軍はユグ川上域のキーチェンメングの町を攻略して4月初頭にコストロマの地を荒らした。オボレンスキー公の部隊はタタール軍を200kmほど追撃したが、追い付くことが出来なかった。1468年5月1日にタタール軍部隊はムーロムを襲撃したもののホルムスク公によって壊滅させられた〔''Ю. Г. Алексеев'' Под знамёнами Москвы. — М. Мысль, 1992 г. C. 80—82〕。 1468年の夏にロシア軍は主導権を自身の手で握ろうと試みた。リャポロフスク公フョードル・セミョノヴィチの«前哨部隊»はニジニ・ノヴゴロドを出撃して6月4日カザンから40ベルスタにあるズヴェニチェブの樹林にてタタール軍の精鋭部隊を壊滅させた。別のロシア軍の大部隊はガーリチを出撃してヴャトカ川並びにカマ川を下ってカザンへと出る必要があった。けれどもタタール軍はヴャトカへ遠征を行い、この時、同都市はイヴァン3世に直に従わないで争乱から脱した。ヴャトカにはタタール人の代表団が残ったが、和平の条件その物はかなり寛大であったものの、肝心なところはロシア軍が賛同するところではなかった。軍司令官イヴァン・ドミトリエヴィチ・ルノ率いる総勢300人から成る少数のロシア軍部隊のみがタタール軍が遮断していたカマ川に打って出ることが出来た。タタール軍の遮断にも係わらず、ルノはカザン軍への後方へ行軍を続けた。ルノの軍勢に対してタタール軍部隊が派遣された。敵軍との遭遇下で平底船を捨てて徒歩で川岸で戦った。ロシア軍は勝利した。後にロシア軍は大ペルミとヴェリキイ・ウスチュグを回って帰還した。タタール軍はムーロムへの新たな襲撃を行ったもののホルムスク公はこれを追って壊滅させしめた〔''Ю. Г. Алексеев'' Под знамёнами Москвы. — М. Мысль, 1992 г. C. 84〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロシア・カザン戦争 (1467年-1469年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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